2007/10/31(水) 『深いよ、俺は』 |
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混迷する現代社会において、僕たち私たちは様々な問題に対峙し
そしてそれを乗り越えていくことで成長する。
今、真っ先に解決しなければいけない問題はなんだろう?
賞味期限問題か?はたまたテロ特措法か?
もちろん、それらも重要な問題ではあるが
オレは思う。激しく疑問に思う。
クボジュンのポジショニングについてだ。
需要はあるのか?とうことだ。
クボジュンとはもちろん、元NHKアナウンサー久保純子その人だ。
問題はいろいろ提示できるが、たとえばクボジュンつったって
「コ」しか省略されてねーだろ、とかそんな事だ。
あの程度のタレントにしては(アナウンサーなのかな?)
露出が多すぎだろ。チヤホヤされすぎだ。
何かしらの「力」が働いていることは容易に想像できるが
(両親ともテレビ関係者だったこととかから)
それにしても、いらねーだろ。
やっぱり「元NHKアナウンサー」というのが大きいのだろうか?
「いやいや、どうでもいいだろそんなこと」
なんて、したり顔でこの問題から逃げるのは簡単なことだ。
しかし、オレは考える。
クボジュンは今のテレビ界に必要なのだろうか?と。
いや、ウソだ。そんなこと考えるヒマはない。
だって、そうだろ?この混迷する現代社会において
クボジュンなんてどうでもいいじゃないか。
うん、いいに決まっている。
ところで、他人のブログを読んでいて、たまにこう思うことがある。
なぜ、そんな謎めいた、だからあきらかに何かを含んだ表現で
しかし、第三者には決してわかることのない表現で書くのかな?
ってことだ。
もちろん、そういった時は何かを批判していることが多い。
書きたいのか書きたくないのか、読まれたいのか
読まれたくないのかさっぱりわからない。
書けないなら書かなければいいし、書きたいなら
しっかりと書けよ、その批判だかなんだかを(笑)
ってブログをたまに見かける。
そういうのってなんなんだろな?(笑)
クボジュンの存在意義くらいわからない。
「深いこと考えてるよ、オレ」的な表現なのだろうか(笑)
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